Ryo HAMADA
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イラつく写真
村田真(美術ジャーナリスト)
浜田涼 忘却録 >>

 人はものを見るとき、はっきり見えないとイラ立つ。そのいらだちは対象をうまく言語化できないときのもどかしさと似ている。それはおそらく、相手がなんであるのか??敵か味方か、獲物かそうでないのか??が見分けられない不安からきたものだろう。だから人は細部までくっきり見るために眼鏡を発明し、望遠鏡や顕微鏡を開発してきた。
 われわれがファン・エイクや伊藤若冲らの細密画に惹かれるのは、髪の毛1本1本、羽毛1枚1枚まで鮮明に描き込まれているからだ。だが、その方向に突き進んでいくと、海岸の砂の1粒1粒まで、森の木の葉の葉脈1本1本まで見きわめなければ気がすまなくなり、狂気の世界に突入する。
 ともあれ、そんなわけで、隅々までシャープに描かれた絵というのは人の目を引きつけるものだ。しかし、ついその画像に目を奪われて、それが絵具で塗られた平面であることを忘れさせるのも事実。つまり、描かれたイメージが前面に出てくるため、絵画というメディアの物質的側面が見えなくなるのだ。逆に、輪郭をぼかしたり筆触を荒々しく残したりすると画像に没入できなくなり、それがほかならぬ絵画であることが意識され、絵画メディアの物質性が強調される。こうしたメディアの覚醒こそモダンアートの特性にほかならない。
 写真にも似たようなことがいえる。シャープに撮られたカラー写真であれば、鮮明なイメージに引きずり込まれてそれが写真であることを忘れさせる。ところが、ブレていたりボケていたりするとその表面で視線が跳ね返され、写真の物質性・メディア性を意識させられることになる。中平卓馬や森山大道の写真がそうであったように。
 さて、浜田涼である。もともと浜田は夜の風景を油彩で描いていたが、10年ほど前から制作の補助手段として使っていた写真を表現メディアにするようになったという。つまり、初めから夜景というよく見えないものに惹かれ、闇のなかではっきり写らない写真を撮っていたのだ。ここから浜田の現在につながる仕事が始まる。
 浜田はピンボケ写真を拡大して、上から半透明のシートをかけたり、乳白色のアクリル板をかぶせたりしてボケに拍車をかける。なんとなく風景であるか人物であるかわかるけど、それがどこなのか、だれなのかまでは判明しない。つまり、敵なのか味方なのかわからない程度のボケ加減だ。
 しかも、ここが重要なところだが、浜田の作品はボケているにもかかわらず、あまり写真であることを意識させない。写真の上をシートやアクリル板でおおっているので表面に粒子や細かい傷が見えず、視線が引っかからないからだ。その意味では物質性が希薄で、メディアとして透明だといえる。だから画面を凝視しようにもなかなか焦点を結ばず、思わず手で触れてしまう人も多いという。まったく、イラつく写真である。






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