Ryo HAMADA
Statement


とても小さい頃、
小さい子だからと寝かしつけられ、
どうせならと大好きな母の笑顔を、
絵本に出てくるお姫様のようにキラキラと
天井に思い描きながら眠ろうとしたことがある。

ところが、大好きな母の顔が具体的にどういう構造なのかわからなかった。
イメージはたっぷりなのに、形がわからなかった。
私はこんなにも母を大好きなのになぜ思い描けないのかと、
とてもショックだった。

 

小学生の頃、
親友と遠い公園に遊びに行った日、
ちょっとケンカして別れて、つまらなくなって集合場所に戻り、
彼女を待ちながら見た丘の向こうの景色。

「こんなことも“思い出”になるんだろうな」と思ったことをよく憶えている。


 

大学生の頃、
帰宅途中に歩く夜の町並みを眺めながら、

「自分が動くと景色も変わるんだなあ」と思ったことを、
よく思い出す。

 

大学を出て研究生だった夏休み、
貧乏旅行中のモロッコの首都ラバトで
まだ明るい夕刻の広場の向こうに小さく光る月を見たとき、
こんな地球の反対側の、考え方のまるで違う世界にいても、
学校帰りに見るのと同じように月があり、
同じように自分があるんだなあと思った。

往来のラバトの人たちは今日も日常生活を営んでいるのに、
自分はなぜ旅行なんかしているんだろうと思った。
旅行者などという特殊な立場でいたらだめだ、
早く家に戻らなくては、と思った。

旅していてはダメだと思ったのは、旅をしたから解ったことだった。

 

二十代の頃、
なんで自分は自分なんだと思って、
じゃあ自分でなくなろうと、
混雑する駅で群衆になろうとしたけどなれなかったことがある。

なんで自分は群衆になれないんだろう、
それは自分が自分だからだと気が付いた。
滑稽な話だが、それはそれでショックだった。

 

こんなことを何度も思い出しては反芻している。

誰にでも、引っ張り出しては仕舞い直すことを繰り返しているような思い出があるだろう。
その度にそれらの記憶は端が擦り切れたり、
まわりに何かが付着したりするわけで、
先に述べた私の記憶は、
最初はまったく違うものだったかもしれないし、
もしかしたら自分自身の記憶でなかったかもしれない。

その時の記録写真もないし、立証するすべはない。

 

日に焼けて色あせた古い写真を見て、
本当にこの瞬間はあったのだろうかと、 不思議に思うことがある。

中学校の卒業アルバムなどを見ていると、
今の自分とちがう自分が、 忘れた世界にどっぷりと浸かって生きているのだ。

この子は私ではない。

でも私はこの頃の記憶や体験にも影響されながら生きているのだから、
やはりこの子は私だ。私はこの子だった。

自分の変わりように比べれば、友達なんて全然変わってないと思ってしまうのも、
この頃と全く変わっていないと、
自分だけが知っていると思うのも、
それもまた自分が自分だからだ。


群衆になれなかった少しあと、 母が目を患った。
視覚とか認識について考えることが日常的に必要なことになった。

三十代を過ぎてから、群衆になれるようになった。

それは、自意識の中心となる位置が(そういうものがあるのだとすればだが)当時と変わってきたからだと思う。

自分自身というものはそれほど重要でないと解ってきたからだとも思う。自虐的な意味ではなく。


最初、絵を描く資料集めに使っていたカメラが、いつの間にか制作に必須のものとなった。

資料集めにカメラを使う以前は、ちゃんとピントを合わせたスナップ写真を撮っていたものだが、
資料集めを始めてからはなぜか色と形が写っていれば問題ないと感じていた。
それからずいぶん年月が経つのだが、
今は、“問題ない”どころか、はっきりしてしまったら意味がないと思っている。

非日常、たとえば結婚式やお祭りや発表会などのハレのときは、それ自体が完結していて疑問の生じる余地はない。

だからあまり憶えていない。憶えていても、謎はない。印象的で当然だ、と言えるほどの印象の薄さだ。

それに比べてケである日常生活は、
いろんなものの端っこが混じり合いぼんやりとして曖昧なものだらけで出来ている。

とかく社会では、物事を鮮明に、明確にすることが求められる。

つまり物事は、鮮明でもなければ明確でもないと言うことだ。

それに関しては、この先もずっと変わらないだろう。

私が気になるのはまさにそのあたりだ。

 

世の中に「自分」はいっぱいいる。
私だけが自分ではない。みんな自分なのだ。

じゃあ私はどうしたらいいのだろう?

いやむしろみんなが自分だから共感できるのだろう。

共有ではなく、共感。

などとぐるぐると考えながらファインダーをのぞくのだけれど、
そのぼんやりとした中でシャッターを切るのは、
かなり確信を、明確に持った瞬間だったりする。

心は躍っていたりするが、頭の中は温度なく静まりかえっていたりする。






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